誰が正義で悪だというのか


「――!!」
 あれは、一体何なのだろうか。初めて魔法――後から知った事だけど、あれは魔術というらしい――を見た私には、とても衝撃的な光景だった。
 靄のようでもあった悪意は、放たれた瞬間骸骨のような形へと変化し、進路上で微動だにしないクーヴェル神父の頭を噛み砕こうと、大きな顎を開く。
「危ない……!」
 私の不安は大きくなるのに、クーヴェル神父は鼻を鳴らし『こんなものか』と呟いたのが風に乗って聞こえた。
 顎に頭から飲まれ、首に怪物の歯が食い込むかと思われたその瞬間、骸骨の動きが止まった。
 その間に、空中へ文字を書くよう素早く腕を振るうと、神父は何か短く言葉を発する。
 すると、どうだろう……巨大な骸骨はびくびくと二度ほど痙攣し、内部から破裂するかのように霧散した。
「えっ……!?」
 驚いたのは杖村さんだ。もちろん私も驚きを隠せなかったけれど、術を放った彼女の方がずっと驚いている。
「今のが渾身の術でしたか? 軽く破ってしまい……失礼。
これでおわかりでしょう? わたしには貴女程度ではどうあがこうが勝てない。これ以上力を出すと怪我をしますよ。
あきらめて、ごめんなさいをしてはどうでしょうか」
 腕を後ろ手に組んだまま、クーヴェル神父はお説教の体勢に入った。私もこのポーズで怒られるからすぐに分かる。
 ルイ神父のお説教も長いけれど、クーヴェル神父は難しい言葉を使うぶん意味が分かりづらくて嫌なの。
 しかし、杖村さんは嫌だと頑なに拒否し、神父の提案を退けた。
「あたしはあたしのやりたいようにやる! ほっといてよ!」
「ふむ、交渉は決裂と言うことかな。聞く耳を持っていただけないのは残念ですが……那弦、友達はきちんと選びなさい」
 杖村さんの事で、なぜか私が怒られてしまった。
 実際彼女とは友達になれたかもしれないと考えていたから、クーヴェル神父はそれを見越していたかのようで。
「偉そうに、オトナっていつもそう。馬鹿な人だって居るのに。子供の方が絶対馬鹿だって思ってる」
 再び指をクーヴェル神父――杖村さんからしてみれば、得体の知れない男性――へと突きつけ、口の中で何かを呟いている。
 そんな少女が次にどうするのか、手を出さず見守るクーヴェル神父。ただ、その眼光に優しさは微塵もない。

「もうあんたも来須さんも嫌い、嫌い、嫌い、嫌い! 大嫌い!
みんな死んじゃえばいいんだよ――!!」

 怒りと憎しみが込められた言葉は、いつ聞いても胸に突き刺さる。
 負の言葉は負の気を呼ぶのか、言葉だけではなく、先ほどと同じよう――いや、先ほどよりも強い力で魔術は放たれた。
 五匹の亡者が、狂気に目を光らせながらクーヴェル神父と私目掛けて襲いかかってきたのだ。
 骨と皮しかない手を一生懸命に伸ばし、空気が通っているだけなのか、はたまた地獄からの呼び声なのか……心が凍りそうな恐ろしい声を発して進んでくる。
「ひっ……!」
 恐怖に引きつった声を上げる私の体を、クーヴェル神父はそっと自らの元へ抱き込んで、大丈夫と告げて励ます。
 淡々とした声だけど、本当に大丈夫なのだろうと思えるから、私はこくりと頷いて……それでも、クーヴェル神父にしがみついていた。
「五匹同時……。意気込みは良し。いや、本当を言えば将来が楽しみでしたよ……魔術の基本とルールが判っていたら、ね」
 クーヴェル神父は杖村さんを見下すように冷たく笑うと、黒い革靴の爪先で地面をトントンと叩く。
 すると、土の中から、一匹の黒猫が現れた。
 そう。生い茂る草むらの中からではなく、亀裂も何もない地中から猫の前足が……続いて可愛らしい顔がぬるりと現れたの。
 猫はクーヴェル神父の顔を仰ぎ、彼が黙って頷きかけるを見上げていた。

「にゃあ」

 緊迫した場に似つかわしくない声で一鳴きしてから、小さいけれど細い三日月のような鋭く白い爪を出し、飛びかかるようにして腕を切り裂く。
 前足だけではない。強靭な獣の牙が、柔らかに見える尻尾が、亡者の頭を砕いた。
 尻尾などは、骸骨に当たる瞬間尾先が刃物に変化しているのだ。
 瞬く間に、杖村さん渾身の作である五匹の化け物を無効化し、猫は満足そうに優しく鳴いた。
 頭を撫でてやるクーヴェル神父を呆然と見つめているのは当然、杖村さん。
「うそ……猫ちゃんなんかに……」
「だから言ったでしょう。貴女は小鼠程度だと」
 クーヴェル神父は最後に猫の喉を撫でてやると、猫は再び地中に潜っていく……いや、違う。
 猫はクーヴェル神父の影に入り込む……というより『戻っていった』のか。
 さっきは咄嗟だったから地中から出た気はしたけど、多分影から出たんだ。
 そうして、クーヴェル神父は猫から杖村さんへ視線を移すと、呪詛を、と言った。
「安易に考えてはいけない。
貴女はまだ幼いけども、魔術は年齢に関係なく発動するのだから。
術を使用するには対価がいる。あなたはその対価を支払い忘れているため、
それが蓄積している状態なのです。恐らく、今の魔術で貴女は収集がつかない領域に踏み込んだ。いわゆる『ツケ』が負に転化する」
 そう言いながら、私から離れて立ち尽くしたままの杖村さんの前へゆっくり歩み寄ると、彼女の視線に合わせるように身を屈めた。
「もう魔術を使わないと約束するなら……記憶を改ざんするだけで見逃してあげましょう。
その『ツケ』も一度だけは、わたしが無効化して差し上げよう」
 すると、杖村さんは悲しげな表情を浮かべ、嫌だと駄々をこねた。
「記憶? あたし、魔法使えなくなるの?
そんなの嫌! あたししか、魔法は使えないんだから……! 使えなくなったら、みんなと同じになっちゃうじゃない!」
「日本人は、普通ではないものを厭忌します。
貴女は見ず知らずの人間から、耐え難い程に濃密な悪意を云われなく受けるでしょう。
一生その身は、安息も自由もない呪われた暮らしを継続できるというのですか?」
 その問いは、彼女がこの暮らしを続けていくのなら本当に起こり得ることなのだろう。
 好奇心から振るわれる暴力や悪口、食べ物も着るものも粗末なものを与えられ、それでも静かに生きていけるなら……と思っても安寧はなかった。
 私も、神父達がいなければ払拭できなかった境遇だ。思い出すだけで切ない、あの暮らし以上の恐怖なんて――まだ私は知らない。
 それを、杖村さんは構わないと即答する。
「それくらいいいよ! 魔法が使えなくなるより、ずっと平気だもん! 誰よりも私の方か幸せなんだから!」
「杖村さ――」
 説得を試みようとした私を手で制し、クーヴェル神父は分かりましたと諦めたように告げる。
「見極めの分からない人間はこれだから嫌なんです。
那弦も……自分の限界を超えたらどうなるか、一人でなんでも出来ると思い上がる人間が、いざ呪詛を受けたらどうなるか見ておきなさい」
 立ち上がるクーヴェル神父は、杖村さんに指先を向けた。

「貴女と那弦は住む世界が違う。
那弦は我々にとって尊いものであるけれども……貴女は我々にとって虫一匹の価値もない。さようなら、小さな愚者よ。
火に炙られないだけありがたく思いなさい」

 パッと淡い燐光がクーヴェル神父の指先から散って、杖村さんの周りに降りかかる。
 すると……彼女の周りの地表がモコモコと盛り上がり、無数の小さな泥人形が溢れ出るようにして這い出してきた。
「な、なに……きゃああっ!!」
 人形は先を争うように彼女の体によじ登り、その髪や肌、服を汚していく。
 振り払っても振り払っても彼女の上に覆い被さっていき――彼女の背も頭も、人形の山が築かれていて、まるで彼女が人形を生み出しているかのようにも見えるほどに――異常な光景だった。
 このままでは重みに耐えかねて埋められてしまう。
「クーヴェル神父、彼女を助けて! 危ないよ……!」
「それはできません。彼女は自らの過ちを償う必要がある。それも……命で。
魔術や魔法というものは、人ではならざるモノの力を借りるのだから、真剣に向き合わねばならないのですよ。
それだというのに、肝心な対価を支払い忘れ、敬意を払わない。彼女はそれを知ることができなかった。
遅かれ早かれ、こういう運命が待っていたことでしょう。
一般人に目撃されなくて良かったではありませんか。貴女なら、人がどれほど恐ろしいかよくわかるでしょう、那弦?」
 確かに人間は恐い。ひとと何かが違うというだけで攻撃的になる。
 生きていてはいけないのだと思わされる。
 そんな気持ちを味わうなら、これが良いというの――?
「そんなの、どっちがいいなんて分からない……。でも、今回は助けてあげて!! お願い……死んでしまう!」
 すると、クーヴェル神父はまるで解せないといった表情で私を見て、正気ですかと口にした。
「……貴女が彼女の奴隷になり、いずれ殺されるかもしれなかったのに?」
「それは……」
「彼女は貴女に危害を加えていた人間と本質は同じですよ。
突然自分の前に現れた貴女は外見も愛らしく、その体に秘められた強大な神秘を本能的に感じ――全てにおいて疎ましく思ったのでしょう」
「そんな事は良いから、あそこから出してあげて!」
 すると、神父は私から両膝を地につき、叫びが涙声になっている杖村さんに視線を移し、無理ですと言い放つ。
「――フォルネウスもわたしも、貴女のお願いを本来聞いてあげる立場ではありません。
貴女のお願いを叶えてあげるには、わたしたちに貴女が対価を支払わねばならないのですから」
「対価……ってどんな? それを払えば、杖村さんを助けてくれるの?」
「彼女を助けるだけではなく、人間界の不可能を可能にすることくらいは出来ますが……ここでは話しづらい。
貴女に関わることはルイ神父の許可も必要ですからね……。
喜ばしいのか彼女は運が良ければ自力で脱出できる。悪くても意識不明というだけで、死にはしません」
 まだ不安そうな私の背を優しく押し、クーヴェル神父は帰ろうと声をかけた。
 それでも食い下がって帰ろうとしない私に手を焼いて、クーヴェル神父は私を抱え上げると、そのまま歩き出す。
「……貴女一人の力では、彼女を助けることは出来ません。自分の無力さも知りなさい」
 酷く現実的な言葉は、まだ幼い私に大きな理解を残すことは出来なかったけど、ただ――私は、泥人形の山となった彼女が、ゆっくりと崩れ落ちるのを見つめ続けるしかなかった。

 このお題【誰が正義で悪だというのか】は、空耳様よりお借りいたしました。

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