君の望むことだったらどんなことだって叶えてあげたかったのに

 この家で暮らすことになった初日、私は今までの名前を捨て去る儀式のようなものを行った。
「貴女が仮に使っていた名前は、既にインターネットを介して、オカルトマニアや宗教団体、あるいは……貴女を怖がらせた者たちと同じように、興味本位な方々に知るところとなっています。
ですから害が及ばない手段と、貴女を変える手段が必要なのです」
 ルイ神父の私を変える手段、の意図するところは良く分からなかったが、私はその日のうちに【那弦(なつる)】という名前を貰い、今までとは違う人物として暮らす事になった。

 しかし、それから数日で不思議な事が起こり始めた。
 私の髪は黒髪だったはずなのに、だんだんと色が抜けて茶色くなり、一週間経たずして目の色が紫がかってきたのだ。
 怖くなった私は神父らに相談したが、ルイ神父もクーヴェル神父も驚く事なく、綺麗な色になったと褒めてくれるだけ。
「私、変なの?」
「変ではないです。よく似合うと思いますよ」
「でも、不良みたいになっちゃう」
 すると、ルイ神父は笑いを押し殺しながら、確かに学校に行くなら不便ですよねと言った。
「学生の間は、隠すしかありません。大丈夫ですよ、貴女を不良なんて言わせません」
 ルイ神父の笑顔はなんとなく安心していいような気がするし、クーヴェル神父も、ルイ神父ほどではないにしろ、私の事を気にかけてくれる。

 その日の夜、神父様におやすみなさいを告げに、居間へ行こうとしたときの事だ。
階段を降り、居間の扉を開けようとしたら――ルイ神父の声が聞こえた。
「那弦の眼を見ましたか? 綺麗な紫色でした」
「はい。親と同じ色でしたね」
 クーヴェル神父がそう答えると、どうやらルイ神父は笑ったらしく、ふふっと彼のくすぐったそうな声が聞こえた。
――今、神父は何と。
 その先を聞きたかったけれど、既に神父2人は私の親を知っているらしい。話はすぐに流れていった。
「しかし、これからどうされますか? 那弦は学校に通うことになります。
『奴ら』が嗅ぎつけて来ないとは限りません。わたしとしては、彼女に護身として多少教えた方が良いと思いますよ」
 奴ら? 護身……?
 クーヴェル神父が何らかの提案を出すと、ルイ神父は思案でもしているのか、黙りこんでしまった。
「僕らが…………と、聞いたら、那弦は果たして…………を、どう感じるのでしょうか……」
 しばしの間をおいてから話し始めたルイ神父の声は小さめで、ところどころ聞き取り辛い。
 もう少し良く聞こうと、足を踏み出した時、クーヴェル神父が『誰だ!』と鋭い声を発して、勢い良くドアを開ける。
 警戒の様相で現れたクーヴェル神父の背中に、まるで天使ような純白の羽が見えた。
「……那弦」
「あ、あの……おやすみなさいを言いに、来たの」
 一度神父から視線を逸らし、再びクーヴェル神父を見つめると……もう背中の羽は無かった。
「那弦、どこを見ているのかな」
 私の視線が彼の肩越しなのが分かったのか、クーヴェル神父は真面目な顔をして、私に問いかけた。
 クーヴェル神父は、なんだか変だ。人に変だと言われていた私が変だと言うのはおかしいけれど、彼は明らかに普通の人じゃない。
「何か見えたのかい?」
 そうして、すっと私の肩に手を伸ばしてきた――……。
「イヤあ!」
 私は、クーヴェル神父の手を払うと、玄関目掛けて廊下を駆け出した。
「那弦!」
 ルイ神父が呼ぶ声も聞こえたが、クーヴェル神父も追いかけてくるから今の私には怖いという感情しかなかった。
「那弦、待ちなさい!」
「いやぁあああ! こないでえ!」
 私は半狂乱といっていい状態で、玄関に着くと、ロックを外してドアノブを捻る。
 パジャマのままで、サンダルも履かずに飛び出すと、私はあてもなく走った。
 ただ、あの場から逃げたい一心で。
 途中で女の人と出会い、驚きの表情を浮かべたままの相手に私は口を開きかけた。
「た……」
 助けて、と叫ぼうとして、私は誰にも助けを求められないと感じる。
 また、施設で奇異な眼や罵倒を浴びる生活に戻ると考えたら、それは絶対に嫌だった。
 女の人が何かを言う前に、私は再び走り出す。
 神父たち……特に、クーヴェル神父は何だかおかしい。
 息も切れ、後ろを振り返っても、神父達が追って来ない。
 振り切ったか、私はやっぱり、いらなかったのか……。逃げた今となっては、どちらも変わらないかもしれない。
 私はまた、何も無くなってしまった。
 得るものも無く、失うものも無いまま……人気のない公園の中に逃げてきてしまった。
 電灯の下にベンチが一脚あって、私はそこに歩み寄ると腰かける。
 裸足で走ったせいで、足の爪に砂が入りこんでいる。爪と肉の境が黒くなっているし、砂粒は大きいらしくて足指が痛む。
 片足を抱え込んで、足裏の砂をぱっぱと払い落とすと、膝の上に顎を乗せて途方に暮れた。
 これからどうしたらいいだろう。
 神父達が変だと、交番に駆け込んだら信じて貰えるだろうか?
 それより、こんな時間に子供が、と叱られて、あの家に戻されてしまうのだろうか……。
 どのみち、小さかった私には、世界の仕組みや常識もよく分からなくて、その場に佇んでいた。

「……お嬢ちゃん、どうしたの?」
 男の人の声にはっとして、声のした方を振り返ると……私から10メートルほど離れた場所に、神父達より若い男性が、ビニール袋を手にして立っていた。
「……こんな時間に、小さい女の子が1人でいたら危ないよ。パジャマのままだけど、お家から出てきたの? お父さんやお母さんは?」
「……いない」
「えぇ?」
 すると、男の人は間の抜けた声を出したが、1人なんだ、お兄さんと一緒だねえとも言った。
「お兄さんの家においでよ。楽しいよ」
「…………ほっといて」
 優しい人もいるんだなと思ったけど、それは勘違いのようだった。
 じゃあ悪い子だなあ、と、男の人は愛想笑いを浮かべたけれど、その人の顔には気持ちの悪い笑みが浮かんでいて、ルイ神父の優しい笑顔とはまるで違っていた。
「う……」
「親切にしてあげてる人を勝手に怖がるなんて、悪い子だなあ……ほんとに悪い子だぁ……」
 私がベンチから降りて、男の人に背を向けないよう後じさりすると、男の人は私に大股で歩いて距離を詰めようとする。
「悪いなぁ……ムカついてしょうがないや……ああ、なんだか腹減ったしな……それでかな。
じゃあせっかくだし、悪い子は……食べちゃう。ムカつくから頭から食っちまうしかないよなあ~!!」
 男の口が耳まで裂けて、鮫のようにギザギザした歯が見えた瞬間、私は叫びながら再び駆け出した。
――あれは何、アレはなに? 在れはナニ!!
 逃げなくちゃいけないのと、死ぬかもしれないという混乱で他には何もわからない。
 もう少しで公園の入口に着くと思った瞬間、私は何かに足を取られて派手に転ぶ。
「あうっ……!」
 顔を砂地に打ってしまったせいでくらくらした。足もじんじん痛む。
 一体何につまづいたのかと思ったら、地面から出ている青白い手が私の足を掴んでいたのだ。
「ひっ……!」
 地面から出ている手は一つではなかった。黒いものや大きいもの、細い指や鳥の爪に猫の手。
 私の周りにはびっしりと、様々な形、大きさの手という手が群がってくる。
 私の手首を掴み、髪を引き、砂上に押さえこむと首にも伸びる。
「や、だ……! ぐっ……!」
 幸い、私を取り押さえたのが人間の手のような形だった。爪の鋭いものだったら、肌は切り刻まれていただろう。
「つ、捕まえたな。
わ、悪ガキめ。イヒひ、食っちゃう、食ウ、クウぅう!」
 口裂け男は発音もおかしい状態で涎を垂らしながら私の眼前に立つと、覆い被さってきて興奮に荒く、生臭い息を吹きかけた。

 もう殺される。

 私は観念してぎゅっと眼を閉じた時のこと。
 ぱぁん、という銃声がして、私の身体の上から重みが消える。
「僕の大切なお姫様に、汚らしい悪魔が触らないでくださいませんか」
 聞き覚えのある声がしたと思っていると、身体を押さえつけていた手は、慌てたように私の戒めを解いて離れていく。
「……那弦」
 駆け寄ってきたのはルイ神父で、私の事を抱き起こすと、ほっとしたような表情の後、頬を撫でてくれた。
「本当に……無事で良かった」
 そのまま私を抱きしめ、もう一度良かったと言われると、私もじわじわ涙が溢れてきた。
「……ルイ神父様、ごめんなさい……! クーヴェル神父が怖かったから……」
「……貴女を陰日向から護る役目というのに、怖いなんて心外ですね」
 いつの間にここにいたのか、シルバーフレームの眼鏡を指で持ち上げながら、当のクーヴェル神父が不服そうに抱擁しあう私たちを睨んでいた。
「……言っておきますが、わたしの羽や靄が見えたのは、貴女の力によるものですよ。普通の人間達には、何も見えませんからね」
 つまり、それは私が普通ではないという事を伝えているに等しい。
「……しかし、わたしもこう見えて、貴女を大切に考えているんですよ。
まぁ、貴女を愛してやまないルイ神父ほどではないでしょうけど」
「当然です」
 嫌味が通じないらしいルイ神父は、にこにこ笑顔で私を抱きしめたままだ。
 しかし、彼の右手には、黒い銃が握られている。
「ルイ神父様……これで……あの人、死んじゃったの?」
 私の視線が銃に注がれているのを見たルイ神父は、まさか、と首を振る。
「わざと当たりどころを外しましたから、死にそうになったとしても、まだ死んではいません。十分な罰を与えませんと」
「天罰?」
 私がそう聞くと、2人の神父は鼻で笑う。
「――まさか。こんな格好をしてはいますが、敢えて言うとすれば……『世を忍ぶ仮の姿』というやつです」
 クーヴェル神父(と、まだ呼んでいいのかしら?)は、冷たい笑いを浮かべ、ルイ神父も黙って頷く。
「神は存在するのですよ、那弦」
 私から離れると顔の前で銃口を空へ向けるようにして構え、ルイ神父はこうも言った。
「しかし、僕たちはね。神に唾吐く生き方を選んだのです」
 その時、私はルイ神父の背に……天使と悪魔の羽が対に生えているのを見てしまった。
「……おや、眠っているのか起きませんね」
 伏したままの口裂け男に近づき、クーヴェル神父は氷のような透明な剣を出す。
「ルイ神父があなたにお話しがあるそうですから、起こしてさしあげます」
 すると、クーヴェル神父は剣で男の手を突き刺した。
「ぐぎゃああっ!?」
「なんだか汚らしい悲鳴ですね……」
 痛みに飛び起きた男に、言葉通り汚いものを見るかのような表情で吐き捨てたクーヴェル神父は、お早く、とルイ神父へ告げると後ろに下がる。
「……最近、人間界は荒れているらしいですね。担当魔王が無能なら、部下も無能というのは仕方ありません」
 ルイ神父は淡々と語り、銃口を男に向けた。
「で……誰に頼まれましたか?」
「ヒッ、し、知らねえ」
 男は明らかに怯えた様子で首を左右に振るが、ルイ神父は、ふむ……と言うと、一発の銃弾を男の足に撃ち込んだ。
「ぐひぃ……!? いでぇ、足、穴が! ぎゃああ、痛ぇ、痛ぇよぅ……!」
 痛いなんてものではないのだろう。
 男は足を押さえてごろごろと地面を転がり、苦悶の声を上げている。
「思い出すまで続けますよ。誰に、僕のお姫様に悪戯していいと言われました?」
 しかし、ルイ神父は少しの憐れみも覚えないらしい。
 顔はにこにこと笑っているが、怒りを含んだルイ神父の声は凄く怖い。
「那弦、これ以上見るのは貴女の教育に悪い。先に帰りませんか?」
 クーヴェル神父が私の肩に手を置いてそう尋ねると、ルイ神父は『そうしてください』と賛同した。
「……帰っていいの?」
「ええ」
 クーヴェル神父は頷いたが、多分意味を取り違えている。
 だから私は、そうじゃない、と首を振ってから、こう答えた。
「私は、家を飛び出したから……なのにまた帰っていいの?」
 すると、クーヴェル神父は『はあ』と気の抜けた返答をする。
「世の中は喧嘩して『出て行け』とも言ってしまうものです。
しかし、結局皆帰ってくるのですよ。貴女が泣きながら飛び出して行っても、翌日何食わぬ顔でおはようと微笑んでくれるなら、痛くも悲しくも有りません」
 さらりと言ってくれるクーヴェル神父。だが、その後で私の頭に手を置いて、こうも言った。
「……しかし、貴女がいてくれないと、ルイ神父が毎日泣きながら日々を過ごします。
わたしも、ルイ神父ほどではなくともきっと悲しい。
貴女は、自分1人のものではないのです。そう簡単に出て行くだの死ぬだのされてはいけない」
「大変同感です」
 また銃を撃ちながら、ルイ神父は此方に笑みを見せている。
 こうしてルイ神父がよそ見してなお、男は逃げようとしない。
 逃げようとしないのではなく、逃げられない、が正解みたいだ。
 男は両足を銃で撃ち抜かれ、顔は涙か汗かも分からないくらい汚れているし、口からは涎も流している。
 ああ、口が裂けているから、涎が垂れちゃうんだ……。
「……あんなもの見てはいけません。行きますよ、那弦。では、ルイ神父。お早く」
「はい。では」
 にこやかに応対する神父を残し、私はクーヴェル神父に手を引かれながら公園を出た。
 土地勘のない私にはどこをどう通って来たのかすら分からない場所だったけれど、クーヴェル神父は迷う事なく進む。
 ほぼ等間隔に立つ街灯の下を、私たちは連れだって歩いた。
 クーヴェル神父の手は、ルイ神父のようにしっかりと私の手を握ってくれるものではなくて、力を抜いたら指先が彼の手を離れてしまう程度。
 だから私の方が、神父の手をしっかり握らなくてはいけないくらいだった。
「……後ほど、ルイ神父が戻られたらきちんとお説教を致します」
「えっ」
 驚きに満ちた私の顔を見て、当然でしょうとクーヴェル神父は言う。
「こんな時間に裸足で飛び出して。
わたし達が駆けつけたから良いものの、貴女は危うく死ぬ所でしたよ」
「……ごめんなさい」
「謝罪は後にしましょう。今は、貴女が無事だった事に感謝を」

 家に帰ってから、クーヴェル神父が風呂場まで私を抱き上げて、砂で汚れた足を湯につけて洗ってくれた。
 足指の間まで指で洗うから、くすぐったくて身じろぎすると注意を受ける。
 仕方がないので、私はクーヴェル神父にしがみついて、くすぐったいのを我慢していると、ルイ神父が帰ってきたらしい。
 玄関の開く音が聞こえ、廊下を歩く音も近づいてくる。
「おや、那弦。クーヴェル神父と仲良くなったのですか」
 足を拭いてもらう私を微笑ましく見つめながら、ルイ神父はただいまと言って、真顔でクーヴェル神父を見つめる。
「良いですねぇ、クーヴェル神父。
僕はまだ、那弦の足を洗ってあげた事もありませんが」
「……別に風呂を共にしたわけではないでしょう。
そう怖い顔で見つめないでください。手が震えます」
 冗談なのか本気なのかよくわからない切り返しをしたクーヴェル神父は、もう良いというように背中を押して私を解放した。
 ルイ神父はといえば、そんなに怖かったですか、と呟きながら自身の頬に触れている。
 居間に戻った私は、帰りの道すがらクーヴェル神父が言っていた『お説教』を受けることとなったのだ。

「だいたい、クーヴェル神父は貴女に危害を加えていません。それだというのに――」
 正座をさせられ、2時間近くルイ神父のお小言は続いている。
「……ルイ神父。もうその辺で」
 時計を見上げながら、助け船を出してくれたのはクーヴェル神父。
「那弦もこの通り反省しています。これ以上は、健やかな心身の育成に関わる事です」
「そ、それはいけませんね。
分かりました……。クーヴェル神父の仰るように、今後はこのような事が無いよう、共に理解を深めて行きましょう」
「はい……」
 睡魔が襲うため、こくりと頷くのがやっとの私は、ようやく部屋に戻ろうとした。
 が、ずっと座っていたため足の痺れのに立ち上がる事も容易に出来ず、ぎこちない姿勢で止まって、2人に変な目で見られてしまった。
「おや、足がしびれたから動けない、と? ふふ、仕方のない子ですね」
 ルイ神父はすっと私を抱き上げ、居間を出る。
 階段を上りながら、1人で眠れますかと聞いた。
「はい…………ううん、やっぱり、今日は眠れないかもしれないです」
「那弦が眠るまで、側に居ますよ」
 私が寝返りをうっても転げ落ちる事が無いくらい広いベッドに横たえてもらい、ルイ神父は私に布団を掛けてくれる。
「……ルイ神父……」
「何でしょうか」
「私、お家を飛び出す前に、居間にいた神父様達の話を聞いてしまいました……」
 また怒られるかもしれないが、私は素直にそう言うと、ルイ神父はそうでしたか、とただ頷くだけ。
「ルイ神父……私の、親を知ってるのですか?」
 すると、ルイ神父は悲しげに目を伏せ、はい、と肯定した。
「私がいなくても、元気でいますか?」
「……那弦……」
 それ以上は、ルイ神父は何も言ってくれない。
 ルイ神父がまだ言葉を選んでいるのか、それとも何か重要な事を話しているのかも分からない程度に、私の意識はとろとろと溶けていて、もう起きていられない。
「……ごめんなさい」
 意識を手放す前に、ルイ神父の声で、そう聞こえたような気がした。


 このお題【君の望むことだったらどんなことだって叶えてあげたかったのに】は、Regulus様よりお借りいたしました。

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