ただ彼は辛そうに目を閉じる

 私は、親の顔を覚えていない。
 母はおろか、父の顔も名前も知らない。
 親戚と呼べる人もおらず、いわゆる捨て子……として保護されたらしい。
 物心ついた時には、既に周囲から距離を置かれている状態だった。
 その要因の大半は……自分で大きな問題を起こした事はないけれど――私を引き取った施設では、なぜか急に物が壊れたり、勝手に動くといった事や様々な事象が相次いだせいらしい。
 私が原因とは限らないじゃないか、と言ってくれた人も少なからずいたけれど、だんだんその人数は減り、最後には誰もいなくなった。
 そういった現象なんて常に見てきたから、私にとっては『そういう摂理のものなんだ』くらいにしか思っていなかったので、深く考えてもいなかった。

――でも、世の中は違うみたい。

 一体どんな風に人の噂っていうのは流れてくるのか。
 私を引き取ると悪い事もついてくる、とか、悪い霊に祟られているという馬鹿みたいな話が施設内ですら囁かれるようになった。
 子供の私ですら『くだらない』と感じる話は、一般的に、ある種の恐怖や好奇を呼ぶらしい。
 噂が本当かどうか試すつもりだったのだろう。同じ施設にいた同年代くらいの少年少女から、受けるに値しない暴力を幾度か与えられた事もある。
 突如顔に激痛が走り、ちかちかする視界で床に落ちた野球ボールを見て……ああ、私はこれをぶつけられたんだろうなと感じ、鼻からとろりとこぼれ出た物すらぼんやりと見つめた。
「あっ、こいつ鼻血出してやんの」
「やだ-、汚い!」
 謂れのない噂で、なぜ私が傷つく必要があるのか。なぜ人を殴ってこの子達は嘲笑しているのか。
 怒り、困惑、悲しみ、恐怖。
 様々な感情が私の中に溢れ、床に落ちる血の雫を見ているうちに、わなわなと身体が震えた。
「……よ」
 食いしばった歯列が離れ、私の唇は怒りのまま、言葉を吐き出す。
 ぴたりと動きを止めた彼らは、互いににやけた顔を見合わせていた。
 身体の節々が脈打つように痛い。
 落ち着いて色々な事が考えられない。体の中から湧き上がる【何か】はもう自分の意志で止められなかった。
「こんな……事して、何考えてるのよ。
私を人間じゃないみたいに扱うあんたたちの方こそ、人間なんかじゃない!!
本当に私が人間じゃないなら、あんた達なんか――!」
 私がその時、どんな事を言おうとしたかははっきりと覚えている。
 子供の純粋さゆえ、強すぎる言葉をそのまま吐き出そうとする前に……ドン、という重い音と共に建物全体が激しく揺れた。
「うわあああ! 地震だ!」
「こいつがやったんだ!」
「先生、せんせえぇえ!」
 誰かが泣く声。
 私を糾弾する声もあったけれど、地震の恐怖と相まって、途中からは何を叫んでいるかは分からないものだった。
「なによ、それくらいで泣いてみっともない。バカじゃないの?」  揺れは激しく、大人でも立っていられないほどだというのに、私は彼らを睨みつけたまま一人だけその場に平然と立っていた。

 その後、噂は更にひどいものとなって行ったのは言うまでもない。
 私を怒らせると殺されると囁かれるようになり、学校にも通う事が禁じられて、挙句小さなプレハブ小屋に隔離させられた。
 待遇は悪くなったような気もしたけれど、良く考えれば一人なら静かで良いし、誰もここに近づきはしないだろう……と思ったのは浅はかだった。
 噂を聞きつけた外部の人間が、わざわざ施設に忍び込む事案が頻発した。  プレハブのドアを叩き、ドアノブを回してみたり窓の外からこちらを覗き込んだりするものだから、その度に私も恐怖し、騒ぎはますます広がる。
 そんなことばかりで疲れ果てた私や施設に、ある日突然、教会から引き取りたいという旨があったそうだ。
 私の扱いと存在に手を焼いていた施設では諸手を挙げて賛成したし、教会側の『一刻も早くお願いしたい』という双方の意見が合致し、その日のうちに話は纏まった。
 私の面会と引き渡しは同時に行われ、私はその時初めて引き取り手がいる事を知ったのだ。
 悪霊がいるとか、不思議な現象が起こるという噂がついにそういった場所にまで届いてしまったのか。
 教会に行っても、きっと――何も変わらないか、扱いが酷くなるだけだというのに。
 私の心は既に諦観しかなく、荷物を全部かき集めても鞄一つに収まる程度のものしかないので、それを持たされ教会の神父だという人と対面する。
 薄くて、ところどころ汚れた白い扉の向こう側で待っていたのは、黒いスーツ姿の男二人。
 その人たちこそ教会から来た人だけれど、引き取り手はどちらもまだ二十歳半ばくらいの、非常に若い人だった。
 優しそうな青い眼と、白っぽく見える金の長い髪を持った男性が一人と、もう一人は黒髪で……眼鏡をかけた男性。
 どちらとも日本人の外見ではないように見える。
 黒髪の男性は私に会釈しただけで、金髪の男性は私を一目見やり、嬉しそうに微笑むとこちらに歩み寄って、私の目線に合わせるように屈む。
『はじめまして』と、流暢な日本語で話しかけてきた。
 でも、私には教会の人だろうと子供だろうと関係ない。
 みんな自分に危害を加えるに違いない、という危機感と恐怖しかなかったから、口と心を閉ざして視線を逸らす。
 挨拶しなさいと施設の人に言われたけれど、男性は『だいじょうぶですよ』と笑って応じていた。
「貴女を迎えに来ました。お会いできて嬉しいです」
 そう言いながら男性は私の手を取ろうとして、身体についた切り傷や青痣に目をやり――なんてことを、と嘆いた。
「この傷は……ここで?」
 男性が幾分厳しい口調で施設の女性に問うが、彼女はオロオロしながら『転んだと思う』とか『知りません』など、説明にもならないような言い訳を始める。
 結果、私が自分で傷つけたという事にされたようだ。
 スーツの男性はそれ以上何も聞かず、沈痛な面持ちで立ち上がると、行きましょうと私かもう1人の連れ――恐らく両方――に声をかけた。
 施設を出るとき、息を潜めるようにしてこちらを伺う子供たちの視線を感じながら、私は忌まわしき場所から、久方ぶりの【外】へと踏み出した。
 風が自分の頬を撫でる感覚も久しぶりだったけれど、心が動かない。
 表情一つ変えない私に、金髪の男性が『ごめんなさい』と謝罪した。
「……貴女はたくさん、恐ろしい思いをして……そして、たくさん我慢してきたのですね……。
辛い日々を過ごさせてしまって、本当にごめんなさい。
でも、もう大丈夫ですから」
 悲しげな表情で私に話しかけてくれたけど、私はやっぱり、まだこの人達を信じる事が……人を信じる事が出来なかった。

 このお題【ただ彼は辛そうに目を閉じる】は、コ・コ・コ様よりお借りいたしました。

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