ルフティガルド戦乱:34話  全て穢れている

――誰かがいる。

 緊張で硬くなるシェリアの顔を、見知らぬ少年……アレッサンドロが覗き込む。
 彼の翠玉のような眼は暗い室内で鈍い色を放ち、感情も読み取れないものになっている。
 自身の置かれた状況を把握し切れていないシェリアにとって、どういう存在なのか不明である少年一人は驚きと恐怖の対象でしかない。
「ふぅん……起きたんだ。あのまま死んでしまえば、良い人生だったかもしれないのにね」
 シェリアの生死にさほど興味もなさそうに少年は呟き、困惑しきりの彼女へ初めましてと感情のこもらない挨拶をする。
「ボクはアレッサンドロ・ベルクラフト。この家の三男だよ」
「ベ……っ!?」
 ベルクラフトの名を聞いたシェリアは、怯えるように視線を逸らした後、自らの胸元を見て凍り付く。
 はだけた服、というよりも無残に引き裂かれたそれは、彼女の胸元を覆う機能を失っている。
 慌てて隠そうとしたが、今のシェリアには腕を満足に動かす体力もなく、僅かに腕を持ち上げただけ。
 それも長くは保てず、腕はぱたりと力なくベッドの上へと戻っていく。
「あ、あ……わ……た、し……」
 音のようなか細い声が漏れる。言葉を生む唇はたどたどしくて、うまく喋ることが出来ない様子だ。
 アレッサンドロはシェリアに水差しを向けたが、シェリアは唇を引き結んで拒否を示した。
 喉は酷く渇いている。身体も弱っている。が、ここで何かを口にしたいとは思えないため、シェリアはささやかな反抗を見せる。
「……胸でてるけど、兄さんが治療以外をしたわけじゃないよ。
まあ、ちょっとくらいは触ってたかもしれないけど……『まだ』何もしてないだけ。あの人達のイリスクラフトへの執念とかは凄いから……」
 シェリアの胸元を見ないように視線を外し、アレッサンドロは水差しを机上に置いて冷たく言い放つ。
「とりあえず、あなたが起きたら教えろって言われてるし。ああ、言っとくけど逃げようなんて思わないほうがいいよ。
その身体じゃどうやらまだ何も出来ないっぽいし、痛い目に遭いたくなかったら、届かない祈りでも捧げながら大人しく寝てて」
「ま、っ……て……!」
 上手く動かない唇と、恐怖に擦れて小さくなる声。アレッサンドロは彼女を忌むように睥睨した後、無言で部屋を出て行く。
 
 とうとう、本来自分があるべき場所に出逢ってしまった。
 
――どうしよう、いやだ、ベルクラフトは、いや……!

 これから自分がどうなるのか、何をされるのか。恐ろしさと絶望に、拒絶より先に涙と吐き気がこみ上げてくる。
 頭の中が否定の言葉で埋まっていき、震えが止まらないのに、身体を抱きしめる力すら自分には残っていない。
――たすけて、カイン。たすけて、兄様……!
 アレッサンドロの言うとおり、この部屋は祈りも光も届かない。
 動かない身体で、自分は来たるべき瞬間を……ベルクラフトの意のままになる運命を享受せねばならないのか。
 こんな時だというのに、いや、こんな時だからなのか……シェリアは、ブレゼシュタットでフィーアが発した言葉を思い起こしていた。

――全く以てだらしない。
シェリア様、もう役立たずの貴女はこのままベルクラフトにお行きなさい。
貴女は光も差さない場所で野獣じみた男共に嬲られていることでしょうけど、わたくしの知ったことではありませんわ。

「フィ……、ア、さま……」
 咲き誇る蘭のように優雅でありながら、炎のように苛烈な意志を持つ王女。
 その言葉の真意は、シェリアを奮い立たせるために発された言葉であったが、まるで予言のようにも聞こえる。
 フィーアへの第一印象は良くなかったものの、打ち解け合ってから今日まで彼女にはどれほど助けられてきただろう。
 彼女は『心を強く持つように』とシェリアを叱咤し、ブレゼシュタットではカイン達が宝珠を取りに行く間、王家の者しか入れぬ試練の間へとシェリアを進ませた。
 厳重に結界を張られる扉の奥、幾つもの魔法陣が敷かれた中心にシェリアを立たせ、フィーアは試練を受けさせる。
 術を発動させる前に『試練の最中に生還を諦めれば、貴女の精神は戻ることが出来ない』とも言ってシェリアを不安がらせたりもしたが、十分忠告し、とても尽力してくれた。
 試練の術式は、潜在意識が強く反映された鏡の世界を創り上げるもの。そして、幻術か現実かの区別も曖昧になる。
 鏡の世界に落とされたシェリアは、どこが真実でどれが虚構かも分からないほどに引きずり込まれた。
 奇しくもカイン達が幻影に苦しめられている頃、シェリアもまた同じ境遇にいたというわけだ。
 そこではアルガレス皇帝だけではなくレティシスや父、兄――顔も分からぬベルクラフトが、シェリアへ容赦ない言葉と暴力を打ち付けてくる。
 幾度もシェリアは屈辱に耐え、裏切りと悲しみに心を潰され、嘘と空虚に記憶を塗り替えられそうになり……ついには自分の魔力を暴走させてしまった。
 結局――止めようとしたフィーアも怪我をしたし、シェリア自身はそのまま気を失って倒れてしまった。あの試練を乗り越えたとは言えない結果だ。
 無事に目覚めた後、フィーアに何がきっかけだったのかと問われ、シェリアは……己を恥じながらも『リエルトが殺されてしまいそうだったから』と告げた。
『カイン様が関わっていた……のでは、なかったのですね。意外です』
 そう言われて、シェリアは確かに、と自分でも驚いていた。
 なぜなのかは分からないが、あの世界でカインに会うことはなかった。もしあの世界で自我を保ち、カインに出会えたのなら――試練に打ち勝てたのだろうか?
 それとも、カインが現れたら皆と同じように自分を辛辣に罵り、蔑んで傷つけただろうか。そうなのだとしたら意識は戻らなかったかもしれない。
 覚えている限り、シェリアを支えていたのはカインを信じること……ではなく、リエルトに危害が与えられるなら、その全てから我が子を守りたいという気持ち。それだけだった。
 そして、リエルトの事を思うと当然レナードの姿が重なり、己で刺した胸は外側からも内側からも痛みを訴える。

『お前が死んだら、全て終わるんだ……! お父様も、フィーア様も、僕も家族でいられるのに!!
なんでここに僕らは立ってるんだ!! なんでみんなうまくいかないんだ!』
 嘆きと共に吐き出されたリエルトの言葉が思い起こされて、シェリアは瞼を閉じる。
――私は、あの子を幸せに出来なかった? そして、未来の私はこの手で……カインを?

 そんなことがあるはずはない。しかしずっと正体を隠し、自分を殺す機会を伺っていたというリエルトが嘘を言っているとも思えなかった。
 彼の口から発された魂の嘆きを聞き、疑問より先にその苦しみから救ってあげたいと強く思って行動を起こした。だから、自殺を図った事を悔やんでは居ない。
 むしろ――なぜ、まだ自分が生きているのか。それを悔やんでいた。
 自分はもうここが終の棲家。だが、レナードと名乗っていたリエルトは……はたして、あれからどうなっただろうか。
 カインは、あの子を赦すだろうか。フィーアは、全てを知って受け入れてくれるだろうか。そして、リエルトは自分がいないことで笑って過ごすようになれるだろうか。
 心配は尽きない。けれど、もう自分は何も出来ない――……そう、全てを諦めよう。そうするしか、残っていない。
 ごめんね、と、心の中で詫びようとしたとき、シェリアはそのリエルト自身の言葉を再び思い出す。
 
『未来を諦観するために、僕はここに来たんじゃない……!』

 彼が発した本来の意味とは、違う。それは分かっている。
 だが、このまま本当に何もせず諦めて良いのだろうか。
 せめてやるだけのことを……無駄だとしても、一度だけでも試みてはどうか。
 そう考えたシェリアは、幼少の頃誘拐されかけた事を思い出す。
 知らない男の人が、自分の身体を軽々と抱き上げて街を走っていく記憶。
 あの時は何が起こったのか分からず、声を出すなと脅されたのが怖くて震えているだけだった。
 目撃者が多かったのが幸いして、帝国側の派兵も多く、シェリアはイリスクラフト領を出る前に助かったのだが――あの時は本当に、何も出来なかったから。
――今のわたしに……抗えるようなことが、なにかできるかな……?
 満足に動かぬ身体へ力を込めて、首を横に傾ける。
 魔蜘蛛アラクネの糸を集めて紡いだシェリアの服の一部が、ベッドの上にうち捨てられていた。
 シェリアの枕元には、引きちぎられた愛用のチョーカーが転がっている。
 気に入っていた装飾品が壊されていることは悲しかったが、全身に力が入らないこの状況では、首から外すこともできなかっただろう。
 指先に力を入れて、シーツを手繰るようゆっくり動かす。幼い子供でも出来る簡単なことだというのに、今のシェリアにはかなりの重労働に感じられた。
 ずっ、ずっ、とチョーカーが僅かずつ近づいてきて、肩を過ぎ、腕を過ぎ……シェリアの指にチョーカーの先に付いている、青い雫型の宝石が触れた。
 爪で引っ掻くようにして青石をやんわりと握り混んで、まず一作業終えたことに息を漏らす。
 これだけの作業に時間を費やし、脂汗まで流していた。
 青い石は魔法が封じられた宝石。万が一の状況を考え、シェリアが長い船旅の間に幾度も魔法を重ねがけして魔石へと昇華させたもの。
 本来石が持つ輝き……いわゆる石の命を消し去って魔法を刻んでいった故、魔力を解放してしまえば代償として石は砕け散る。
 これと、シェリアの耳に揺れるピアスは同じ石――カインから初めて貰った、シェリアの大事なものだ。
 自分と同じ目の色をした宝石を誰かへ贈ることは、お守りとしても情を示すことでもよく知られている。
 そのときのことを思い出し、シェリアはこれから行おうとしている事を躊躇ったが……脱出を試みるにはもうこれしか残された術はない。
――ごめんなさい、カイン……。
 シェリアは意識を集中し、石の魔法を解放する。
 かしゃん、と粉々に爆ぜる石。瞬時に、シェリアは自身の身体に力がみなぎってくるのを感じた。
 石に封じたのは回復魔法である。外傷は胸部の一点しかなかったのにこの傷は完治しなかったものの、体力の回復に多大な効果があった。
 とはいえ、まだ通常時の半分ほどにしか回復できていない。この程度しか回復できていない事にシェリアは首を傾げる。
 自らの魔法治癒に自信を持っているため、本来ならば傷も塞がり体力も全快しているはずだし、ある程度気力も回復できるはず。
 魔力が枯渇している状態は回復しないし、疲労が抜けたくらいの実感しかない。気になる事は他にもあるが、時間がないときに悩んでいても仕方がない。
 身体が動かせるというのはこの事態において、喜ぶべき事案の一つだ。
 魔力が足りていなかったせいでうまくいかなかったのだと仮定し、身体にかけられた汚らしいシーツを撥ね除けるようにして起き上がると、自らの服でまだ使えそうな部分を確認する。
 上着の長い裾を上へと持ち上げ、胸の前できつく結ぶ。慰め程度にしか過ぎないが、胸を晒したまま歩くことが無いのは嬉しい。が、もう時間はない。
 慌てて周囲を確認し……机に水差しの他、自分の装備品が投げられているのを確認した。
 中身が卓上に投げ出されている事から察するに、内容を改められたようだが別段何かがなくなっている……などということはなかった。
 掻き寄せてポーチへしまうと、腰に巻く時間も惜しんで胸に抱いたままドアノブに手をかける。
 開こうとして、カインが『扉を開ける前に周囲をよく確認しろ』と言っていたのを思い出し、ドアに耳をあて、周囲の音を探り……何も聞こえないことを確認すると、音を立てないようにして扉を開き、そろりと顔を出して通路の先を見つめた。
 掃除をしていないため汚れている廊下は、左にも右にも通路が伸びている。周囲も薄暗くて、手すりの向こうに何があるか見通すことは出来ない。
 まるで、自分自身の運命そのもののようだとシェリアは自嘲しつつどちらへ進めば良いか逡巡した。
 階下から、嬉しそうな男の声が聞こえた気がする。悩んでいる時間はない。どちらにするか決めなければ――!

『右に』
 慌てて左に歩みかけたシェリアの脳裏に、再び謎の声が届く。

 夢の中で聞いた声か、はたまた……カインが目の敵にしていたあの女性か。
『早く、早く右に真っ直ぐ。足音を立てずに!』
 シェリアを急かしつつ、指示は正確に行う謎の声。罠であるかもしれないが、それを判断している余裕はない。
「……」
 すっと身を翻し、シェリアはなるべく足音を立てないよう気を遣いながら、急いで右の通路を進んでいく。
 自分の息づかいにも気をつけなければ、気配を探られて位置を知られる懸念もある。
 シェリアは片手で自分の口元を覆い、もう片方の手は壁に触れながら、暗闇に隠れるようにして歩く。
『次の扉を開いて、部屋に入ったらすぐ左に見える扉を開けて』
 次の扉、という声に従い、壁際の……最後の扉を開く。
「ん……っ!?」
 扉を開くとつんと鼻を刺すような強い臭いが室内中に充満しており、シェリアは顔をしかめ、思わず鼻までを掌で覆う。
 魚が腐ったような、生臭いような鼻を塞いでも鼻腔に残る、強い臭気。
『早く、左の扉』
 その臭いに参っているシェリアを更に急かす声。
 臭いが強すぎて、和らげようにも一体発生源はどこなのか何なのかも分からないが……指示されてる部屋だとしたら、一刻を争う瞬間でなければ正直開きたくはない。
 後ろ手で今開けた扉を閉めると、シェリアは左側に進み、指先に触れるドアノブの冷たい感触を探り……掴んで捻ると、駆け込むように身を滑り込ませて素早くドアを閉じる。
 臭気は先ほどよりも格段に和らいだが、依然として屋敷に漂う埃っぽい匂いは消えない。
 部屋が僅かに明るいことに気がつき、室内を確認すると小さな窓が一つだけある。煌々と届く日差しではないが、生い茂る木々の合間から柔らかく陽が届いているのだ。
 
 そして、その窓辺に一人の女性が、首を鎖に繋がれたまま床に座っている。
 ずいぶんと痩せていて実際の年齢は分からないが、女性の青みがかる銀色の髪は、長さもばらばらに切られて床に散らばっていた。
「……しぇ、りあ……よね?」
 そう話しかけられて、シェリアはびくりと肩を震わせる。
 名前を知られていることも驚いたが……自分にずっと語りかけてきたのは、どうやら彼女……のようだ。
 女性の落ちくぼんだ緑色の瞳には、喜びがありありと浮かんでいた。
「あの……」
「よかった……こちらに、いらっしゃい」
 聞いているだけでなんだか胸が締め付けられる、慈愛に満ちた優しい声。
 警戒を怠らないようにしつつ、シェリアは一歩一歩、ゆっくりと女性に近づく。
「屈んで?」
 言われるがままに女性の前で屈んだシェリアへ、痩せて筋張った腕が伸び……腕に絡みついた。
「っ……!」
 恐怖心から一瞬抵抗しようとしたシェリアだが、女性の硬い身体はシェリアを強い力で抱きしめ、頬をすり寄せる。
「シェリア……! わたしの、可愛いシェリア……こんなに大きくなったのね」
「えっ……」

 わたしの、シェリア、と彼女は言った。

『お前達の母親は、銀髪だったと聞き及んでいる』
 カインがこの間そう漏らしていた。そして、あの黒い女性のような美貌をこの女性は持ち合わせていないけれど。
 兄や自分とよく似た色の髪が、視界で揺れる。
『まさか』という期待と『違う』という否定が半々でせめぎ合う。
「あなた、はラーズ……兄様のことも、知っている、の?」
 ラーズの名を出すと、ぴくりと女性の肩が動いた。
「ラーズ? あの子もここにいるの? ああ、ラーズ……わたしの息子……!」
 感極まったようにラーズの名を呼ぶ女性を見上げ、シェリアはこみ上げる思いを止められなかった。
「かあさま……? あなたは、私たちの母様、ランシールなのですか!! ああ、こんな、こんなにやせ細るほどに、あなたは……!」
 何を言っていいかも分からず、感極まってしまったシェリア。絶望の中にあって、僅かに残っていた母への憧憬は、こんな形で叶ったのだ。
 流れ落ちる涙を、枝のような指先で愛おしそうに拭う女性。シェリアはその指を握り、女性を暫し見つめると……母親……ランシールの胸にすがって泣いた。
 あれほど焦がれた母親は、こんな身体になってまでも自分と兄を覚えてくれている。
――なぜ、私の母様は痩せ果てた姿になるまで、ベルクラフトにいなければならなかったのか。そう、全部私のせいだ。
「母様、ごめんなさい。私が生まれてしまったから、あなたがこんな目に……!
私が男の子として生まれていたら、いいえ、生まれなかったら……!」
 きっと、母様はここに来なくて良かった。みんな苦しい思いをしなかった。涙ながらに語るシェリアに、ランシールはかぶりを振る。
「あなたは、女の子として生まれる宿命だった。わたしも、きっと次に生まれる子は女の子だと……なぜかわかったの。
だけど、あなたを産むと決めたのはわたし。たとえこうなる運命だとしても、あなたを生まなければ良かったなんて、一度だって恨んだことはないわ」
 歯が何本か欠けた口元で、ランシールは微笑んだ……つもりだった。自らの容姿に気づいたのか、恥じるようにしてかさかさの唇を手で隠す。
「せっかくの再会なのに、こんな姿でごめんなさい。綺麗でもなくて、お洋服もぼろぼろで、身体もがりがりで……すごくがっかりしたでしょう?」
「私もぼろぼろだから……確かに、母様はどんな人だろうとは思ったけど……会えたことがすごく嬉しくて、外見はもうどうでもいいの」
 これから、兄にも会わせてあげたい。自分以上に喜ぶはずだ……そう思ったシェリアの身体を、ランシールは怪訝そうな顔で臭いを嗅ぎ、柔らかな胸元に手を添えて触れる。
 ランシールは目を閉じ、精神を集中させ始めていた。
「な、なに……?」
「シェリア……あなた、何か、違う『臭い』がする」
「大きな部屋は臭かったよ……私じゃない、と思う……けど……」
「そうじゃない。シェリア、あなたの精神に何か混ざって……澱みが……一体『何』をされたの?」
 ランシールがシェリアの頬を掴み、目を皿のようにして見据えてくる。
 そんな血走ったランシールの目が怖くて、シェリアは思わず視線を逸らしてしまうが、彼女はやがて手を離し、まさか、と漏らす。
「あいつら……」
「母様? ねえ、母様? 私に何か混ざってるって……なに……?」
「あなたは自分で分からないの? 侵食されはじめていることに……」
「侵……」
 一体『何』が自分に起きているのか、自分は何も知らない。だが、ランシールは『シェリア』ではないという。では何があるのか、急に不安になった。
 母は何かに感づいたようだが、ゆっくり聞いてもいられないだろう。シェリアは彼女の後方の窓を見たが、女一人通るにも小さすぎる。これは脱出には使えない。
「それより母様、ここから逃げなくちゃ。きっと、きっと兄様も私を心配して探してくれているはず……!」
「逃げる……?」
 緩慢な動作で、ランシールはシェリアを見つめる。
 シェリアは強く頷き、ここから逃げて兄様に会おう、と口にした瞬間、扉が激しい音を立てて開かれた。
「――おっと、そりゃ困るなぁ。もうお前はこの屋敷から出られないんだ」

 シェリアは覚えていないが、ここへ彼女を連れてきた張本人であるオルフェオが二人を見下ろし、後ろにアレッサンドロが立っている。
「母と娘、感動の再会……ってか? よかったなぁ、大きくなった娘に会えて」
「おまえたち……シェリアに何をした? この子には何もしないと、そう言ったのを忘れたのか! 下劣な卑怯者め……!」
 シェリアを守るよう庇いながら、ランシールは強い口調でオルフェオをなじる。
「――うるせえババアだ」
 ふんと鼻を鳴らしたオルフェオはランシールの肩を蹴りつけ、床に引き倒す。
「母様!!」
「いいか、お前の娘は皇子の前で死にかけてたんだよ。だから、生かすためにお前と同じ薬を使ってやったんだ」
「皇子……? アルガレスの皇子が、シェリアを殺そうとしていたと……?」
 ランシールがか細い声を発し、オルフェオの言葉を確認する。
 唯一シェリアはあれがカインではなくリエルトということを知っているが、彼の正体を明かして良いことではないと感じているし、明かしたところで一体誰が信じるだろうか。
「んで、お前は娘が来るまでの代わり。この女が来たからにゃ、好きにさせて貰う。使えなくなったら――他のやつと同じさ」
「あぁ……呪わしきベルクラフト! お前達は地獄へ落ちろ……!」
 すると、ランシールは怨嗟の声を発し、オルフェオの靴を掴むが、更にオルフェオが足に力を込めてランシールを強く床へ押しつけ、踏みにじる。
「やめて!! もうこれ以上、母様に酷いことをしないで! あなたたちはどうしてこんな酷いことばかり考えるの!? 人としての心がないの!?」
 オルフェオの足にすがりついて暴行を止めさせようとするシェリア。胸の奥がちりちりと焼けるように熱いのは、怒りを感じているからか。
 ランシールをいたぶっていたオルフェオは、キッと睨み付けてくるシェリアに薄く笑いかけ……表情を消すや否や手の甲でシェリアの右頬を思い切り張った。
「ッア……!」
「痛てぇか? オイ」
 痛みに伏すシェリアの髪を引っ張って顎を掴むと、強引に自分の方を向かせる。
「――どうやったか知らねえが、逃げようなんて勝手なことするんじゃねえぞ、クソアマ。
てめえはこれからベルクラフトの物になるんだよ。こっちがどれくらい待たされたと思ってんだ? あ?
人としての心? そんなモンはなあ……イリスクラフトが憎くて忘れちまったよ!! 全部お前らの先祖が悪いんだからなあ!!」
 苛立った口調で話しながらシェリアの顔を二度叩き、オルフェオは歪んだ笑みを見せた。
 強い痛みと衝撃を受け、口の中にはじわりと血の味が広がる。だが、与えられた痛みに屈することなく、なおもシェリアはオルフェオを反抗的な顔で睨み付けた。
 そうでもしなければ、恐怖心と殴られる事から逃避するために屈してしまいそうだったから。
「私は……ぐっ!」
 言い返そうとしたところにもう一度強めの平手打ちを加えられ、更にもう一度反対の頬を打たれる。
 床に倒れ込んだシェリアは、すぐに起き上がろうとするが鼻からぬるりと熱いものが流れ、雫が床に落ちていく。
 自分がどうやら鼻血を出したと気づいたシェリアだが、オルフェオは更に続けた。
「誰が『喋っても良い』って言った? てめぇは黙って俺達に股開けばそれで良いんだよ」
 耳を塞ぎたくなるような下劣な言葉。
 意味を察したシェリアは悔しげに目を瞑り、涙が浮かびそうになるのを耐えた。
 自分にもっと力があったら。もっと魔法を知っていたら。そうしたら、母を連れて逃げ出す事くらい出来たのに。
――こんな奴の前で泣きたくなんてない。私は、まだ負けてない……!
 次の行動を必死で考えるが、浮かんでこない。隙を見て逃げ出す機会は失われてしまったのか。
「理解したか、シェリアちゃん……叩いてごめんな、痛かっただろ? もう大丈夫だ。大人しくしておくれ……」
 鼻血を手の甲で拭いながら、すすり泣きの代わりにか細い呼吸だけを続けるシェリア。
 精神的に折ったものだと思ったのか、オルフェオは口の端を厭らしくつり上げ、優しくシェリアの髪を指で梳きはじめたが……弾かれたように後方のランシールを振り返った。
 そこには身も心もベルクラフトによって削られ、最愛の娘が傷つけられたため憎しみの表情を向けるやつれた女の姿がある。
「……おまえたち……ベルクラフトも、アルガレス王家も……シェリアの害でしかない……!」
「あん? なんだと……?」
「よくも、よくもよくもよくも……あんなものを、わたしだけではなく……シェリアに……」
 うわごとのように呟くランシールに、ただならぬものを感じたアレッサンドロ。オルフェオが『やばい』と口にして一歩後じさった瞬間、ランシールの目は邪悪なものを宿した。
「きさまら、ぜんぶ……わたしが、殺してやる……!」

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タイトルとして使用させていただいているお題
【全て穢れている】は、
コ・コ・コ様よりお借りいたしました。