ルフティガルド戦乱:14話  少しでも幸せではない彼ら


 目を開けると、あたりは真っ暗だった。
 部屋の中にいたはずなのに、何も見えない。
 しかし、横たえた身体に伝わるシーツの感触。どこかに寝かされているのだけは分かった。
――ここは……。
 ぼんやりとする頭でゆっくりと記憶を手繰ると、確か……そう、ブレゼシュタット王国だ、とシェリアは思い至る。
 カインがアルガレス皇帝と話をするため、あの部屋ではフィーア王女とラーズ以外……彼女も人払いをされた。
 その後フィーア王女の侍女に連れられるまま、一人用の部屋を用意してもらった……まではそのまま思い出す事が出来た。
 しかし。室内が真っ暗なのは、日が暮れるほど遅い時間まで眠ってしまったのだろうか。
 この部屋の外では何が起こっているかわからず、室内内部も誰も自分の他にいない。
 しんと静まりかえったその空間は、自分以外の存在があるのか疑わしいほどに静謐であった。

――そういえば、いつも、私の世界はこうだったなあ。
 部屋というよりも、この雰囲気に既視感を覚えたシェリアは、ほんの少し自分が笑っていることに気づくと、頬に手をやる。
 自分が14歳になるまで暮らしたあの部屋とこの場所の違うところは、小さくても窓が無いことのほか――自分の足元で紫色の霧のようなものが、床一面、雲のように広がっている事だ。
 不思議なものだと思ったが、怖いとか、気持ち悪いとは感じなかったのは、まだぼうっとしているせいだろうか。
――ここにカインは……いないみたい。
 目が慣れてきたのかどうかも分からぬ状態で探してみたが、兄もレティシスも誰もいない。
 窓が無い部屋には、よく見れば扉らしきものも無かった。
 どこから自分は入ってきたのか? 本当に誰もいないのか?
 どこにもいけない、だれにもあえない……――それは、子供の頃からずっと同じ。
 出かける用事もないし、沢山の事を知る必要もないと父に言い聞かされて、あの屋敷の中にいるばかりで。
 自分が許されたのは、あの部屋で、窓からの景色を眺めるだけの日々のみだったのだ。
 だから、なのか……こうして一人でいるのは懐かしい感情だと感じるばかりで、悲しくも不安でもなかった。
 
『……こんにちは。真っ暗なのに怖くないの?』

 突然自分の背後から声がしたので、シェリアは慌てて振り返る。
 人の気配を気付けなかったのか……と思ったが、確かに背後は部屋の扉や窓を探すために確認したはずだ。
 もしやフィーアの侍女なのかと思ったが、そこに立っていたのは――黒い女、だった。
 服だけではなく、髪も、目の色も黒い。そればかりか唇を彩るための紅でさえ、赤系ではなく黒が塗られているのだ。
 肌の色は周囲が暗いせいか、白く際立って見えて、まるで亡霊でも現れたかのよう。
 さすがにシェリアも警戒し、身構えつつ目をこらして女の顔を視認しようとしたが、部屋も暗いため誰かが目の前に立っているようだ、という状態で精一杯だし、声も全く覚えがない。
 もしかすると、女のような声音だが、男かも……いや、人間ではない可能性もある。
 このエルティアの世界で黒い髪や目を持つ者は滅多に出会えない。
 黒は美の象徴であるとも言われるほどで、身体に黒を複数持つ者など伝承でしか存在しないと思っていた。
 シェリアもこの1、2年しか外に出た事はないが、黒色を持つ者を見たのは初めてだ。
 気がつけば、女のような人物の左右には小さな明かりが灯っていて、シェリアには黒い姿が浮かび上がるように見える。
 明かりに照らされた腕は細い。
 ローブの上から見える胸部も多少の膨らみがある事からして恐らく、女性だろうとようやく判別できた。
 古代の芸術彫刻を思わせるくっきりとした目鼻立ちで微笑まれると、美しくもどこか危うい、妖しい魅力が感じられた。
「……こんにちは……あの、あなたは……どなた?」
 相手を驚かせないようにと気遣いながら声をかけてみると、女はただ薄く笑うだけ。
「私は……」
 再び口を開いたシェリアに、女はこう告げた。

『シェリアさん。
……あなたは今、悲しい? 寂しい?』

 唐突な問いだった。
 え、と聞き返すシェリアに、女はもう一度同じ問いを返した。
 謎かけなのだろうか。だが、何に対する問いなのかが分からない。
「……どちらでも、ないです」
 シェリアは自分の胸に手を置くと、考えるように少し黙った後、困ったように答えた。
 すると、女はかぶりを振りながらそうでしょうか、と更に言葉を重ねていく。
『でも、幸せではないでしょう……?
あなたは悲しいでしょう?
愛した人に裏切られたような気持ちでいっぱいだから。
あなたは寂しいでしょう?
愛すべき者達は、あなたが知りたいことを教えてくれはしないから』
 この場合の愛すべき者というのは――カイン達の事を示しているのか。
 そうであったとすれば、この女性も、何か話を聞いていたのだろうか?
「……あなたは一体……何を知っているの?」
 どうして私の名前を知っているのか? あなたもあの場にいたの?
 様々な疑問点が浮かんで来るたびに、シェリアの頭の中で『彼女は危険な存在なのでは?』という警鐘が鳴らされる。
 更に警戒を強めたシェリアの様子に、落ち着いてくださいと女は優しく声をかけて諭す。
『シェリアさん、よく聞いて。
フィーア王女は、本当にカイン様の婚約者です。
皇帝に確認を取ったカイン様は、フィーア王女が自身のそれであると認めざるを得ません。
アルガレス帝国もブレゼシュタット王国も……お二人のご成婚を心から望んでいることでしょう』
「…………」
 人に言われずとも、フィーアが正真正銘の婚約者だというのなら、二人の結婚が国の繁栄と強大さに繋がる事くらい理解できている。
 それを、祝福できるかどうか、またはよく思っていないかどうかという事か?
「……私にそんな事を聞きに来たの? あなたに話す事じゃないわ」
 こうして心の弱い部分を易々と見透かされ、彼らの邪魔になっているのでは、と指摘されているような気分にもさせられた。
 だから自然に言葉尻も強くなる。心に鋭いものを突き刺すように、なぜわざわざ言うのかと。
 すると、女は泣きたいのはこちらだと言わんばかりに悲しげな表情を浮かべた。
 そんな顔をされるとは思わず、萎(しぼ)んでいく風船のように力ない声で、ごめんなさいとなぜかシェリアが謝ってしまう。
『シェリアさん……あたしは、あなたの味方になりたい』
 女は慈しむかのようにそう言うと、シェリアへ向かって手を伸ばす。
 その手から逃れるように思わず後ずさったシェリア。
『シェリア、あなたは素晴らしい娘なのです。それを、アルガレスの王家は分からない。
あんな場所になど縛られず、もっと、もっと自由になれるの……!
あなたを悲しみや絶望から救いたい。だから、どうかあたしと共に来て……?』
 お願い、と追いすがるかのように差し出された掌と女の顔を伺いつつ、シェリアは困った様子でなぜですと問う。
「あなたは私を助けてくれると言うけど、なぜそこまでして……? 一体なんのためになるの?
アルガレスからというのは……あなたは私にカインやリエルトと離れろというの?!」
 見ず知らずの他人が悲しむほど、自分を救いたいと願う理由も分からないが……我が子を捨ててでも謎の女の元に向かう価値などあるのだろうか。
 すると、女は眉を下げ、涙を堪えるようにしながら『あたしの可愛いシェリアだから』と言った。
「――……な、んて?」
 あたしの可愛いシェリア。
 そんなことを言われる相手などいるはずもない、と言おうとして……シェリアははっと目を見開いた。
 見知らぬ女性とはいえ、自分には会ったこともない母がいるはずだ。
 この女性は自分より年上に見えるし『素晴らしい娘』だと言ったのではなかったか。
 しかし、自分の母の外見は知らない。黒を持っていたかどうかも知らないのだ。
「……あなたは、私の――!?」
 何なのですか、と言おうとしたが急速にシェリアの意識が揺らいで、闇の中に溶ける――。
 最後に見えたのは、女の悲しそうな表情だった。




 かつ。

 かつかつ。

 かつかつ、かつかつ。

 忙しなく続く硬い音が、シェリアの耳に届く。
「ん……っ?」
 目を開けてから思考が数秒止まったままで、朱に染まった部屋はどこなのか、現実と夢の区別がつかない。
 ひっきりなしに続く音は扉を叩いているものだと気づくのに、シェリアは少々時間を要し、はい、と声を上げつつ上半身を急いで起こした。

 寝起きでやや重い頭をもたげ、部屋の中を素早く確認すると、室内には中庭に通じる大きな窓がある。
 地へ沈んでいく夕日が辛うじて見えているし、その夕焼けの陽が差し込んで部屋が朱に彩られているようだ。
(……夢、なの?)
 これも夢ではなかろうか……?
 妙にリアリティのある不思議な夢を見たばかりなので、自身の手を握ったり爪を立てたりして感覚があるのを確かめる。
 ただ、扉の向こう側はそんな様子など見えない。先ほどよりも強く扉は叩かれていた。
「い、今開けます」
 もそもそとベッドから降り、借りているこの国の服……白い生地をそのまま身体へ巻き付けたようなひらひらとした長いドレスは、生地が軽いためすぐにふわふわと裾を浮かせる。
 素肌に触れる感触は柔らかくて心地よいが、着慣れないせいかどことなく落ち着かない。
 扉の前に立つと、シェリアはもう一度『はい』と大きめの声を出して、扉の鍵を開けようとした。

「シェリア、随分返事がなかったが……何かあったのか?」
 なんと、扉の先にいる声の主は、カインだった。
 普段なら嬉しい相手の声のはずだが、今は彼の声を聞いた途端に、シェリアは己の心臓がぎゅっと掴まれたようなものを感じた。
「…………」
 扉を開けようとした手が、止まる。鍵に手を添えたまま動かない。
「……どうした?」
 問うような声音。カインはただ心配しているだけに違いないと思っても、シェリアの心はなぜか重かった。
「……なんでもないの。ほんとに、ずっと寝ていただけ……」
「それならいいが、ここを開けてくれ。大事な……話がある」
「……私が、聞いていい話ってあるの?」
「……シェリア?」
 戸惑ったようなカインの声が、耳と心を打った。
 いつもなら、嬉々として扉を開けるだろう。
 だが、あんな夢を見たせいか……話す事など何かあるのだろうか。自分にとって嬉しい話題が何か一つでもあるのだろうか、そう思ってしまった。
「……明日でいいかな」
「え?」
「ごめんなさい……少し疲れてて……まだ寝たいの」
 今日は顔を合わせたくない。そう喉元まで出かかった言葉を飲み込み、ごめんねともう一度謝罪の言葉を投げて、そっと鍵から手を離す。
 しばらく待ってみたが、カインからは何の返答もない。
 きっと、そのまま部屋に戻ったのだろう――そう思うと、ほっとしたような虚しいような気分になった。
 ずるずると扉の前にへたり込み、これで良かったのかなと思いながらうなだれる。
『アルガレス帝国もブレゼシュタット王国も……お二人のご成婚を望んでいることでしょう』
 夢の中で黒い女性が告げた言葉は、シェリアの心に重くのしかかる。
 たかが夢。自分の不安が夢になるのもよくあることだ。
 それなのに、シェリアの胸中に反発のような、黒くモヤモヤとしたものが広がり、こびりついたまま離れない。
 これがどのような感情かは、正確に理解する事が出来たとしても知りたくはなかった。
 再びあの女性に、悲しいか寂しいかと聞かれたら、自分はどちらもだと答えるだろうか。
 カインはきっと自分に幻滅した事だろう。
 今会いたくはないが、嫌われたくもない。
 カインが妻に誰を選んでも構わないはずだった。
 けれど――いつから、自分を見て欲しいと思うようになったのだろう。
 彼の方がよほど自分より疲れているはずなのに、わざわざここを探してくれたのではないか?
 申し訳なさもこみ上げてきて少しばかり泣きたくなったが、扉の前から離れると、板のように平らに削った石のテーブルへ近づく。
 ひんやりとしたテーブルの表面に手を乗せ、大きなため息を吐く。
「リエルト……どうしてる?」
 元気にしているだろうか。仮にカインがフィーアと結婚するとしても、息子だけは――嫌わず大事にしてくれるだろうか。
「もし、フィーア様がカインのお嫁さんになったら……私がお母さんって、教えて貰えるのかな……」
 それとも、自分の存在は隠蔽されるだろうか。そう考えると、余計悲しくなって目頭が熱くなる。
「リエルト……」
 こぼれ落ちた涙を指先で拭うが、すぐには止まらないばかりか、溢れてくる。
 次第に嗚咽までこみ上げて、シェリアは己の感情のままに泣いてしまおうかと思ったのだが。
「……泣いても事態は変わりませんよ」
 突然、落ち着いた声音が聞こえたので、シェリアは弾かれたように顔を上げ、口元を押さえる。
 見れば、いつの間にか中庭に通じる大窓は半分開いていた。
 そこから三歩ほど離れた暗がりに人影が見えて――ゆらりと動く。
「……だ……!」
 誰か、と声を上げかけたシェリアめがけて、人影は素早く近づくと、シッ、と静止の意味で息を短く吐く。
「騒がないで。僕です、レナードです」
 そう言われたら、確かに聞き覚えのある声だ。
 まじまじと男を見ると、いつもの仮面はつけておらず、彼は目深に白いフードつきの外套を被っていた。
 鎧姿でもなく、半袖に外套を着用しているから、名乗ってもらわなければ気づかなかっただろう。
「レ……レナードさん……?! な、なんでここに」
「アルガレスの密使ですから、いろいろと皇子の事を陰ながら支えてもいるのです。
今回はまあ、潜入といいますか……中庭は隠れる場所が多くて。そうしたら貴女の姿が見えたので」
「……そう……。
姿が見えなかったからどうしてるのかと思ったけど、良かった、無事だったんだね……」
 兜つけてないのも変装かと尋ねれば、彼の口元は、への字に曲がる。
「……僕を責めないんですか?」
「え、どうして?」
「どうしてって……僕は貴女方を置いて買い出しに出かけて、その間になんだか大変なことに巻き込まれたではないですか。
僕だけ逃げた、そう思われているはずだとばかり……」
 確かにレナードだけは投獄を免れたが、シェリアにとってそれは何か裏があることとは思わない。
 レナードの通行証は確かに偽名だけども、国の密使であるとフィーアにはバレているはずだ。
 だから特別疑問には感じない、そう答えると、レナードは理解し難そうにそういうものですかね、と独りごちる。
「カイン皇子なら、貴女のように思わないでしょうね」
「かもしれないけど……今それどころじゃないから、忘れてるかも」
 ぎこちない笑顔で自分の涙を拭うシェリアを見ながら、レナードはギリと奥歯を噛んだ。
 握る拳には力が入り、小刻みに震えている。
「……貴女こそ、カイン皇子を部屋に入れず、どこの誰とも分からない僕を追い出さないなんて、大丈夫ですか?
誰かに見られれば、確実に皇子のお耳に届きますよ」
「……平気よ。だって、あなた私の事嫌いでしょ?」
「嫌いだから安全だと思っていますか? 貴女、人をいい人ばかりだと思ってませんか……まあ、そんな事を聞きたかったわけじゃないからいいです。
勘違いされて困るのは貴女一人で十分ですから、言いふらさないでくださいよ」
 すると、レナードは口を閉じ、彼女にどういったものか逡巡しているようだった。
「……もし、フィーア王女がカイン皇子とご結婚されるとしたら、貴女はどうしますか?」
「……意地悪ね」
「貴女になら、嫌われて構いませんし……。
僕はカイン皇子に嫌われていますから、こういう事を聞いても絶対お答えしてもらえないでしょう。
そこで興味本位で貴女へ伺おうと」
 真面目そうに見えるのだが、そういったことは気になるのだろうか。
 シェリアは彼の素直すぎる言葉に苦笑しつつ、気が紛れた事に少しばかり感謝していた。
「結婚するとなったら、そうね……もちろんお祝いするわ」
「……その後は」
「うーん……お城にはいられないかもしれない。
でも……リエルトと一緒に暮らそうかな」
「…………それが叶わない場合は?」
 そう尋ねるレナードの声は重く、ここで誤魔化すようなことは言える雰囲気にない。
 恐らく彼も何かを知っているのだろうと思い、シェリアは悲しそうに眉を寄せた。
「……つまり、リエルトを引き取れない場合……ね?」
「はい。ご子息は王家の者と認められていますので、アルガレス王家で面倒を見るのが妥当かと」
「フィーア王女との間に、子が出来るかもしれないのに?」
「出来ても、です」
「……幸せになれる保証も?」
「経済力もあり、厳しくも優しい父親のほか義理とはいえ母親がいることになります。幸せに――」
 そこまで言って、レナードは口を噤んだ。
 シェリアは今にもまた泣き出しそうな顔で、レナードをまっすぐ見つめていたからだ。
「……レナードさんは、はっきり言うね……もう少し、気を遣ってくれたらいいのに」
 恨みごとが効いたか、シェリアを泣かせる罪悪感からか、レナードは顔を背け、彼女のほうを見ないようにと努めている。
 
「…………実は僕も産まれは貴族なので、乳母はいます。
しかし、母親というのは……どうなのかわかりません」
 唐突にレナードがそんな事を語ったため、シェリアは意外そうな顔をする。
「……ある日、母は消えてしまった。
誰に聞いても、消息は分からない。父親ですら、どんな伝手を使っても探し出せなかった」
 レナードは訥々と思い出を語り出した。だが、その口調には静かな怒りが感じられる。
「僕は母の思い出を探し、たった一つ残った小さな肖像画を見つめては、無事なら早く帰ってきてほしいと思い、願いました。
それが叶ったのは……忘れもしない、9歳になった誕生日です」
 レナードはそう言うと、深く項垂れた。
「……母は……確かに僕らの前に現れたのです。
帰ってきたのでは無く、父を殺しに来た。
父は無抵抗のまま殺されました。あの女は笑って、死んだ父の首を切り落として……!」
 レナードの激しい怒りを感じ、シェリアは息を呑む。
「僕はその日、父を失い、母であったものと決別しました。
そんな事もあってか、僕は母親という存在自体に嫌悪があるのだと……自分でも感じています」
 だから――自身の母では無いと思っても、シェリアが【母親】という存在だからこそ余計に嫌うのだろうか。
 そうだったの、とシェリアは呟き、目を伏せた。
「でも、レナードさんはそれ以上に、私を嫌いな理由があるんでしょう?
それを教えてはくれないかな……?」
「……口に出したら、きっと僕は貴女を殺めてしまいます。
どうしても死にたくなったときに、教えてあげます」
 物騒な言葉を発せられたシェリアは驚いて目を見開いたが、わかった、と力なく頷く。
 レナードがそんな彼女の表情を伺うが、すぐに顔を背けた。
「……私もね、母様の事全然知らないの。
兄様は少し覚えているみたいだけど、どんな人だったのかしら」
「ランシール様の事は、僕もラーズ様からほんの少々伺っただけですが、お優しい方だったと聞き及んでおります」
 優しそうなと聞いて、シェリアは再び夢の中の女性を思い浮かべた。
 夢の内容は、既に現実に溶けて思い出し辛いが、真っ黒の女性が『私の可愛いシェリア』と微笑んでいた事は残っている。
「母親って、どんなものかな……」
「……僕にとっては、思い出したくない対象ですし、貴女との話も飽きました」
 くるりと背を向け、レナードは再び中庭に出る。
「そろそろか……兵が見回りに来られては困るので、帰ります……では、またいずれ」
 こちらの言葉を聞くより早く、レナードは中庭の樹木の間に姿を隠すと、いずこかへと消えた。


 が、走り去る彼を見ていたのは、シェリアだけではなかった。
 二階の自室、バルコニーからフィーアも見ていたのである。
「……婦人の部屋に押し入るなんて……何をしていたのかしらね」
 銀の杯を手に取り、レナードが消えた先を眺めながらくすりと笑う。
「さて、貴方のお手並み拝見、といったところかしらね……キョウスケさん?」
 そう言って、自身の後ろに控えていた男に声をかけると、一呼吸置いて、はい、と声がする。
「お任せを」
 そう答えた男の手には艶やかな加工のある、一冊の本が握られていた。
 緑色の表紙に金の箔押で刻まれた文字は、異国のもののようで――フィーアには読めない。
 もしもフィーアが文字を分かったとするなら、この本の名は【ルフティガルド戦争】と書いてあったのだが。
 何度も繰り返し読んだであろう本を愛おしそうに撫で、男は目を細めた。
「その為に、ここへ来たから」
 そう言った男の、短く切り揃えた髪と、大きめな瞳は黒い。
「楽しませてもらいますわよ」
 フィーアは世にも珍しい黒い男の事など気にした様子もなく、杯を傾けていた。

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タイトルとして使用させていただいているお題
【少しでも幸せではない彼ら】は、
コ・コ・コ様よりお借りいたしました。

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